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虫である前に、水であれ

novelcluster.hatenablog.jp

 

こちらの企画に参加させていただきます!

1400文字弱と短めになっています。

一読、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

 

 

 

 

虫である前に、水であれ


今、僕のまぶたの裏に映るのは、小さな頃に憧れた豪華絢爛な蝶の標本箱ではない。そうではなく、不恰好な芋虫が命を一生懸命使い、身の程を知らない量の餌に挑んでいる姿だ。

ようやく僕は自分の弱さを認められる道を選び始めた。
季節が次々と変わっていき、死んだ後に生まれることを繰り返すうちに、僕の命も森羅万象に応えるように形を変えていった。僕の命の形は、バランスを崩しながら羽ばたく蝶ではなくなった。もう一度、僕は身体をドロドロに溶かし、変態をし直す途中にいる。

 

見上げる天井は暗い。店の中央にある巨大な水槽は、青いネオンの光を浴びて人工的に作られた海水と、そのことに気が付かない珊瑚礁らを照らしている。周回する熱帯魚の放つものは、カクテルの持つ煌びやかさとは似て非なるものだった。

横に座る彼女は少しずつカクテルに口をつけている。それはいつもと変わらないように思える。けれど、実際はプリズムの中で起きる乱反射のように、いくつもの違った毎日が交錯している。

目を瞑ると、水音が聞こえてくる気がする。彼女を想うと、雨であり雫でありながら、僕を生きとし生きるように心臓を叩く静かな重さを感じる。不規則で、夢遊病者の叩く手拍子のようなテンポで水が鳴く。ひときわ大きな感情の奔流が、僕を包み込んで唐突に世界から引き離す。流れに身を任せ、上下逆さまになった僕は平衡感覚を失う。居心地の良さが僕を支配する。

「眠いの?」

彼女が僕に声をかける。僕は目を覚ます。カクテルの底に隠れた強いアルコールが、彼女の瞳を淡く潤ませている。渇きは彼女に似合わず、満たすことを恐れない彼女の優しさが溢れている。

「ちょっとだけ眠くなっちゃった。そんなに飲んでないんだけどね」
「そろそろ出てもいいと思うよ」

規則正しいテンポが折り重なって、僕らは不規則の中で息をしている。クレジットカードの伝票にサインをして店を出る。店の外は、営業中を示す看板のネオンで明るい。石畳を彼女と並んで歩く。季節は秋に差し掛かるというのに、随分と暑かった。アルコールを受け付けた身体がじんわりと汗を掻く。大通りをいくつか外れると細い道に入る。必要なのかわからないオフィスビルの背中が遠ざかっていく。

「明日、朝早いよね」

とりとめのないの会話の中で、いつも僕は彼女が眠る姿を想像する。夢も見ないような深い眠りの中で、彼女が望むように満たされることを願う。

「うん。一限からあるから大変」

彼女はそんなことよりも、とすぐに眠りについてとは違う話をする。僕も、いつまでもそれについての話をしたいわけではないので、彼女の新しい話に耳を傾ける。彼女の声音に蝶の羽ばたきの音を聞く。僕はまだ蛹になる準備をようやく始めたところで、それは身分違いの恋かもしれない。

会話の波が沈み、代わりに穏やかな沈黙が顔を覗かせる。彼女が僕の腕を掴む。徐々に力が込められ、痛みが伴うようになる。ゆっくりと彼女の爪が腕の肉に食い込む。
無音の世界の言語は、相手を感じる体温と痛みだけなのかもしれない。覗き見る彼女の横顔は、ほんのりと上気している。

彼女の存在を強く感じるほど、僕の足取りは軽くなる。絡まり合う関係性と反比例して、際限なく上昇していく気持ちを抑えることはできなかった。僕と彼女の二人の夜道は、地下深くの財宝へ続く隠し通路のようにひっそりと存在しているのだった。